西宮から(4) 西宮市立中央市民病院での5日間-2


翌日、たしか午前中だったと思いますが、割と大きな余震がありました。

私は反射的に里美に覆い被さりました。

「きゃーっ」
という叫び声が看護婦の詰め所から聞こえました。

ラジオでは震度3と言っていました。

昨晩帰宅していた年配の看護婦さんは、背中にリュックサックを担いでいました。おそらく非常用持ち出し品が入っているのだな、と思いました。肌身離さず持ち歩いていましたから。

しばらくして(時間は既に忘れましたが、たしか午前中だったと思います)、レントゲン写真の撮影装置がガラガラと引かれて病室にやってくると、娘の腰のあたりと左脚を撮影して出ていきました。

午後に整形外科の先生方(外科の先生もの含まれていたのかもしれませんが)が、ぞろぞろとやってきました。主治医のY先生の手には娘のレントゲン写真がありました。

Y先生がレントゲン写真を袋から取り出しながら、私達がY先生に話したことを、医師団の中心だと思われる先生(お名前が分からないので仮にT先生とします)に説明しました。

病室は医療スタッフのカンファレンスの様相を呈してきました。

「受傷者は倒壊家屋に約5時間、埋まっていたそうです。その際に左脚を強く圧迫されていて、痛覚等も若干残ってはいますが、神経の感受性はかなり低下しています」
とY先生。

「う〜ん、5時間か...」
とT先生。

状況がよく飲み込めていない私と妻にT先生が説明しました。
「お嬢さんの状態ですが...丁度膝の下の外側に骨の出っ張りがあるでしょう。ここに、神経(名前も聞いたのですが忘れました)が通っているのですが、ここが長時間圧迫され、左脚の麻痺を起こしているようです」

「普通、大人の場合と違って子供の回復力は非常に強いので、時間が経てばかなり回復すると思います」
とY先生。

「ただ、5時間という時間が気になります。手術の時でもあまり長時間麻酔をかけるのは良くないんです。普通麻酔をかけて神経の働きを止めるのは2時間が限度だと言われていますし、実際私達も2時間を越えて麻酔をすることはほとんど無いんです。ですから5時間というのが問題ですね」
とT先生。

「どの程度左脚が回復するのかは、いまのところはっきりと述べることはできません。が、先程も言ったように子供の回復力は非常に強力です。神経切断などの最悪の状態ではないようですから、かなりの回復は期待していいと思います」
とY先生。

先生方とのやり取りで私と妻は、娘の左脚が麻痺したままという最悪のシナリオと、そう遠くない日に左脚が回復して自力歩行が可能になるという最も望ましいシナリオのどちらを想定すればよいか、ますます分からなくなってしまいました。

しかし、私は娘の脚の神経機能が残っているのなら、時間はかかるかもしれないがおそらくかなり回復するだろうと、その時からどういう訳か楽観視していました。

その日の夜中に隣の病室に入院していた小学生の女の子が、転院していきました。

受入先に電話しているY先生の表情も声も固くなっていました。

「そうです、地震による受傷です。はい、そうです。診断ですか?骨盤骨折。麻痺性です」

女の子は担架に乗せられ、迎えに来た救急車に乗せられて転院してゆきました。

それを見た時初めて転院ということを思い付きました。

中央病院の水道が復旧する見込みは、まだ立っていませんでした。なによりトイレが問題でした。小便は普通通りできるのですが、大便は新聞紙の上にしてポリ袋に捨てるように病院内のスタッフ、患者全員に指示が出されていました。

その時、中央病院には衛生面で問題がありましたし、食事が患者にとって不十分であること、薬品の不足や医療機器の破損などによって十分な医療が行えない、ということも小児科の先生に聞いていました。

翌日も整形外科の先生方の集団回診がありました。

「先生、私と妻で話し合っていたんですが、実は避難も兼ねて、娘の転院を考えていたんですが」
と私はその時に言いました。

「なるほど。その方がいいかもしれませんね」
とT先生。

「どちらの方に避難されるのですか」
とY先生。

「私の実家が大阪の茨木市にあるので、そちらに避難しようと考えています」
と私。

その時の
「阪大から誰か行ってる病院って、大阪にあったっけ」
というT先生の台詞を聞いて、私は思わずのけぞりました。

『こんな時に阪大も、京大も、近大も、関大もないで。そんなん学閥みたいなもんにこだわってる場合とちゃうやろ』

「避難先の近所に整形外科のある病院があますか?」
とT先生。

「そうですね。整形外科があるかどうかは判りませが。済生会病院、阪大医学部付属病院あたりが割と近いですね」
と私。

「阪大病院が近いんですか」
とT先生。

「ええ、自転車でも15分くらいですかね」
と私。

「でも阪大は一般の患者さんは入院できませんしね」
とY先生。

「他に近くに病院はありませんか」
とT先生。

「あと一番近いのは友絋会病院ですかね」
と私。

「友絋会病院ですか!」
とY先生。

「ええ。自転車だったら6、7分でいけますね」
と私。

「友絋会病院?」
とT先生。

「友絋会病院なら阪大から一人、行ってますよ」
とY先生。

「え〜っ。誰かいたっけ」
とT先生。

「去年の10月から一人行ってます。ただし整形ではなくて外科ですが。友絋会病院なら、その先生経由で阪大病院からアドバイスを受けれますから安心でしょう」
とY先生。

『他の大学を出た先生は安心できないということなのかな?それとも引き継ぎがスムーズに行くということなのかな?』
私には、何が安心なのか理解できませんでした。

「ただ現在、お嬢さんは食欲もなく、水分もとらず、排尿も少なく、排便は無い状態ですのでもう少しの間、ここで経過を見られたら良いと思います。状態がもう少し良くなってから転院したほうがいいでしょう」
とY先生が言いました。

それについては私も同感でした。


解説

初出:1995年8月3日

   Niftyserve THE町内会「緊急開催『大地震』」会議室


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ページ作成者:おおやま